「型」がなくなった育児と『子育て法革命』

森戸先生がこんな記事を公開しました。


母乳神話とデマ|jasmin jasmin 女医の子育て。

本文中に私がまとめたTogetter記事が紹介されています。

母乳の子は違う?食物や食事との関連は?”母乳神話”の体験談と小児科女医・森戸やすみ先生による解説 – Togetterまとめ

まとめていた時、TLに「いつか朝日が昇るまで」のとしぞうさんが登場して驚きました。(※一方的にブログ読んでいるだけです。)

母乳信仰に限った話ではありませんが、育児はとても楽しいんだけど、気持ちが疲れるなあ…と思うことが多々あります。

娘を産んでまだ2年半で、私の中で「親である自分」がまだ育っていないからのような気もしますが、専門家による「ダブルスタンダード」というか「ダブルバインド」によって苦しんでいるような気もしていて。

この疲れはあまり建設的とは思えなくて。やらなくて良い苦労な気がするんですね。

昨日読み終えた本が、示唆に富んでいると思うのですが、現在の私のもやもやを助長している面もあり、なんとも悩ましい…。感想を漁る旅に出ようか…。

“子育て法”革命―親の主体性をとりもどす (中公新書)

“子育て法”革命―親の主体性をとりもどす (中公新書)

この本の中で著者は、

1)子育てにかかる負担(時間)が増えている

2)負担が増えた理由は子育ての主体が、親ではなく子にあるから

…結果として、判断基準が「自然に」「好きなだけ」等、曖昧になっている

…子育てが「周囲の協力を得てするもの」から「母親がするもの」になっている

3)子ども主体の育児は子どもの「万能感」を高めすぎている

…万能感を上げ過ぎたことで学級崩壊が発生?

…親と子の密着度が高すぎてひきこもりも発生?

4)子ども主体の子育ては子どもを尊重しない

…親の都合で子ども扱いしたり大人扱いしたり。ダブルスタンダード

…添い寝や抱っこなどのスキンシップだけでなく、言葉での対話しましょう

…等々のことを、母子手帳の副読本や女性向け雑誌の記事を元に考察しております。

※私による論点のまとめはかなり適当です。

日本の育児文化には2つの軸があり、1つは風習としての子育て(文化的側面)、もう1つは科学的・医学的な子育て。

これは母乳信仰を考える上でも必要な視点だと思います。

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この本、丁寧に情報を拾い集めてある良い本だとは思うのですが、読んでみるとえらいモヤモヤ してしまって。昔より育児に手をかけるようになったことには同意だけど、それが学級崩壊や暴力事件の原因になっているとは思えない。

一方で、著者自身が母親として2人の子どもを育てているので、学校に通いだすと「乳児の頃の子育て法と学級崩壊を繋げる」ような出来事があるのかも知れません。

私の子どもは2人とも未就学児なので、この辺の空気感はわからない…。

母親の負担を減らすようなことも書いてあって。

例えば「おっぱいはいくらでもあげてよい」という指導によって「何でもおっぱいで解決」になりやすいけど、赤ちゃんが泣く理由はおっぱいが欲しい以外もあるから、授乳間隔を意識することで親の負担を減らすとか。

夜間授乳の頻度を減らす・窒息死を防ぐ為に添い乳は止めて一人寝させてみるとか。寝る時の授乳はクセ。クセをつけないことが大事とか。うんうん、とうなずけることも沢山書いてある。

でも、読み終わるとモヤっとする。

なんだろうな、このモヤモヤ…。トピシュさんに解説してもらいたいわ…。

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著者は、日本では生活する上での様々な「型」がなくなってしまった、と指摘しています。

そして、「型」がなくなった社会にふさわしい人格を育てる子育て法を手に入れる必要を説いています。

親子対等な子育てを!との結論で、それはたしかに、そうなのよ。

自分は親としての「型」がないことに苦しんでいるような気もする。

今から「型」を作るのは難しい気はするし、1つ1つの家族でオリジナルの「型」を作っていく時代なのかもしれない。

でもなんだろう…。

何故こんなにモヤっとするのだろう。

いつものことですが話がまとまりません。

冒頭で挙げたとしぞうさんが今日のブログで書いてた「型があるから型破り。型が無ければそれは形無し」の言葉。

※本文はブログ論で育児関係ありません。


「型があるから型破り。型が無ければそれは形無し」 – いつか朝日が昇るまで

この言葉がどうも、頭に残って。

型ってなんだろう。

オリジナルの型って、なんだろう。

ボールを使った競技なら、全て球技だわっしょいしょい!ということなのだろうか。

ルールを作らず、ただ、ボールを蹴っていればサッカーなのだろうか。

自分は剣道をやっていて一応二段なのですが、「型」って、無駄のない美しい所作なんですよね。勝敗が決まる試合での剣道とは違っていて、舞踊にも似た軽やかな美しい、お手本でもあり、最終目的地のような、何か。

うーん。この本にはたくさんヒントが詰まっている気がするけれど、考えがまとまりません。モヤモヤ。

論点を整理してみたらちょっとは違うのだろうか。うーん。

ハーイ(・ω・)/<義憤に駆られた誰かです…orz

ガイドラインはどう構築したものか。「母乳飲ませないと髪が逆立つと言われたんですが…」みたいなことに丁寧に答えるサイトでよいのだろうか?

発言がおかしい助産院の名前が分かった方が有意義な気がするのだが。むむむ。この辺はな〜。お産について書いたら個人が特定出来ちゃうから、近所の助産院の悪い評判なんて、怖くて書き込めないような気もする。

余談ですがミルク関連でこんな署名も始まったようなので署名してきました。

キャンペーン · 外出にも備蓄にも便利な乳児用液体ミルクを、日本でも販売してほしい!Change.orgで署名に参加 · Change.org

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コメント

  1. Apple より:

    真善美の探究【真善美育維】
    【真理と自然観】
    《真理》
    結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
    “ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
    私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
    《志向性》
    目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
    『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
    『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
    我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
    《思考》
    『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
    思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
    『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
    『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
    考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
    《生命観》
    『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
    『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
    生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
    生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
    *己と自の発展
    己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
    己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
    『志向(作用)→肉体・機構』
    然の理・然性
    自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
    然の理・然性(第1法則)
    然性→志向性(第2法則)
    【世界創造の真実】
    世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
    しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
    言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
    これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
    例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
    そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
    愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
    私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
    しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
    「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
    同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
    「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
    神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
    あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
    【真善美】
    真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
    善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
    △→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
    千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
    美は活活とした生命の在り方。
    『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
    予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。
    《抑止力, 育維》
    【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。
    【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。
    真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。

  2. matsuo0221 より:

    コメントありがとうございます。
    「真善美」という概念を初めて知りました。「型」を考えるのに、これだけの視点があるということに気付かせて頂き、ありがとうございます。
    正直な話、読んでもよく分からないので本を探したり、自分なりに勉強してみます。
    先人の知恵を授かることで一筋縄ではいかないことが分かり、気持ちが楽になりました。